百花園園主鞠塢 は福禄寿の陶像を愛蔵しておりましたが、
ある初春の一日、百花園で風流にひたっていた文人たちが誰ともなく、その福禄寿にちなむ正月の楽しみごとはないものかという話に
なりました。隅田村多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の長命寺に弁財天がまつられていることがわかると、何とか七福神をそろえたいものと頭をひねり、詮索を重ねていくうちに、小梅村の三囲稲荷には
恵比寿・大國の小祠があり、また、須崎村の弘福寺には黄檗禅に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明しました。
残るは寿老人であります。だが、それがなかなか見つからない。
結局思案のあげく、百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は、
白鬚と申し上げる以上、白い鬚のご老体のお姿であろうから、
寿老人(神)には打ってつけだと、いかにも江戸人らしい機知を
はたらかせ、ここにめでたく七福神がおそろいになりました。
七福神をまつる社寺を巡りながら、それぞれの御分体をうけて
宝舟にのせていく趣向も、まことに江戸の風流人らしい
発想といえましょう。
隅田川七福神のある墨東の向島 あたりは、市中から
日帰りのできる行楽地として、四季を通じ、多くの江戸市民が訪れた
ところです。また、文人墨客と呼ばれる風流文雅の通人たちの中でも、当時一流の亀田鵬斎、大窪詩仏、酒井抱一、太田南畝、村田春海、巻菱湖、石川雅望、加藤千蔭などはこよなくこの地を愛した人々でした。
文化元年(1804年)に百花園が開かれるについても、
園主佐原鞠塢(きくう)を援けて、それら多くの人たちがわれもわれもと力をかしたもので、百花園は文人墨客の集まる風雅な場所として
たちまち有名になりました。
隅田川七福神の由来
暮らしにくい世相であればなおのこと、たとえ太平の世の中であっても、
福の神を崇め、いっそう豊かに、心楽しく生活できるよう祈念することは、古くから人びとの間に持ち伝えられている心情です。
ことに恵比寿、大黒(國)神、布袋尊、弁財天、福禄寿、寿老人(神)、
毘沙門天と七体の神仏聖人が組み合わされ、七福神として瑞祥の象徴と
なったのは、室町時代以降であります。
そして、当隅田川七福神めぐりのように、新春、その年の幸福を願って七福神を巡拝する信仰行事の形ができあがったのは、町人文化が深く社会に根を降ろした江戸時代の終わり頃になってからで、舞台もこの江戸でした。